建築家・伊東豊雄トークセッション 「日本のこれからのモノづくり 建築×ジュエリー×金属工芸」

【読み物】建築家・伊東豊雄トークセッション 「日本のこれからのモノづくり 建築×ジュエリー×金属工芸」-その3-

読み物

建築家・伊東豊雄トークセッション
「日本のこれからのモノづくり 建築×ジュエリー×金属工芸」その3

-その2- からの続きです)

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2018年4月11日、ジュエリー・アーティスト・ジャパン(JAJ)主催で開催された建築家伊東豊雄さん、そして金工作家であり、5代目鹿島布目(かしまぬのめ)継承者の鹿島和生さん、JAJ代表の米井で語られたトークセッションの様子を皆さんが読めるように、書き起こしウェブ上に掲載することにしました。
素晴らしい言葉がたくさんあったので、それをここに書き留めておきたいと思います。
これからモノづくりをしていく人たち、特に若い人たちのために、何かの指標になるとことを願っています。
そして、「モノ」が果たす、これからの役割に関して、皆が考えていくことを期待します。

トークセッション登壇者:
建築家 伊東豊雄さん
金工作家 鹿島和生さん
JAJ代表 米井亜紀子

(氏名クリックで登壇者プロフィールへ/以下敬称略)

生き生きとしたプリミティブなエネルギーが失われていく

建築家・伊東豊雄トークセッシ 「日本のこれからのモノづくり 建築×ジュエリー×金属工芸」 ブラジルの先住民のスツール

ブラジル原住民の椅子 庭園美術館で開催(会期はすでに終了) 会場構成を伊東豊雄さんが担当

伊東:
建築の歴史を振り返ると、中国とか朝鮮でつくられた建築技術が日本に輸入されてくるわけですね、日本の得意技っていうのは、それを洗練する。ソフィスティケーションが日本の得意技で、屋根なんかも日本に入るとエレガントな反りに変わっていくのです。
そういうソフィスティケーションの技術はすごいと思うのですが、一方で、それだけを自慢にしている日本人はおかしいと思うのです。
ソフィスティケーションだけを自慢にしていると、生き生きとしたプリミティブなエネルギーが失われていく気がします。特に都市での生活で動物的な感受性が失われていく。
そしてソフィスティケーションしかないということが重なり合って、今の日本を非常につまらなくしている気がしますね。
ブラジルの原住民のスツールを先ほど見せしたのは、「装飾だって楽しく明るくて嬉しいものなんだよ」っていう気持ちが、なくなってしまうと、いくらソフィスティケーションだけで自慢していてもつまらないと思います。
ここでもう一つ言えるのは「護る」ことと「創る」こと。
新しいことにチャレンジしていく精神が、伝統を結果的につなげていくのではないでしょうか。

米井:
モノをつくったときに、最終的に「使っている人」とどうやってつながっていけるかと考えています。
つながりながら、モノをつくっていくことによって、一過性では無いモノの価値が伝わるのではないかと思います。
あるいは使う人が、一緒にモノづくりに関わることによって新しい何かが生まれるような気がしています。ただ非常にその関わり方が難しいと感じています。
地域の人といかにつながっていくかということは、まさに伊東塾で始めていると思いますが、伊東さんはどういう取り組みをしていらっしゃいますか。

伊東:
自治体は安心安全を最優先にします。ほかと同じモノにしてください、それ以上のモノをつくってしまうと自分たちがリスクを負わなきゃいけないから。少しでも、そこからはみ出すと嫌な顔をされる。
でも実際使う人たちはそう思っていないのですね。ただ、自治体の中にも、たまにリスクを背負っても、住人のためにやってみようっていう人がいて、やってみると、そこを突破したら、使う人はめちゃくちゃ喜んでくれるのです。
何か目に見えないもの、あるいは自分が自分に課している箍(たが)みたいな自己規制をどうやって越えていくか、その戦略が必要でしょうね。

米井:
金属工芸は、とてもいいモノをつくっているけれど、それを伝えていくというのは非常に難しい。
1回手に取り、知ってみると、非常に生活が豊かになることがわかると思うのです。しかし今、複雑な情報社会になっていて、それを伝えるために情報を発信していくにはかなり多くの時間を浪費します。
いいモノが、最後に使う人に伝わらない。最終的に使う人がそこにたどり着けないという状況があるような気がします。それをなんとかしていきたいと思っています。「つかう人」と「つくる人」を、どうやってつなげていけばいいか考えています。
実は私は、東京世田谷の千歳船橋という小さな街でお店をやっています。
地域の人たちと親密にローカルな場所でつながりながら仕事をしていく。そういう方が、実は足が地に着いていると感じています。
そのかたちで仕事が回っていくためには、突破しなければいけない壁があると、やはり考えています。金属工芸はどうでしょうか。

鹿島:
まず伝統工芸は、若手の人材がいなくなっていくことに、危機感を感じています。素材そのものが高い金や銀を使いますので、若手が1人でやり続けていくには資金がかかりすぎます。とはいえ、金属によって性質が違うので、やはり本物の金属を使わなければならない。
また、さらにそれを支えて、買ってくれる人たちがいなくなっている。志があってもフェードアウトしていかなければならない若手がいるという現状があります。

鹿島和生 打ち出しリング
鹿島 和生作 打出し技法によるリング

米井:
こういう矛盾が最近はグローバル経済の中の発展と共に色々と出てきたように思います。
人が楽に暮らすための経済発展のはずなのに、かえって忙しくなって、余裕がなくなって、実はあまり人は幸福ではなくなってきているという気がします。

伊東:
そうですよね。
高価なものを買う人はたくさんいるはずです。ヴァーチャルなビジネスでお金を得た人たちは、ブランド品を買っているわけです。
だから、失礼なことを言っているかもしれないのですが、伝統的なモノを西洋のブランドものとハッキリと分けるのではなくて、伝統的な技術を使いながら何かもっとそこからは脱したモノはできないのでしょうか。「固定観念をどうやって破るか」が課題のように思います。

米井:
うちでも、いろんなアーティストとコラボレイトして商品をつくることが増えてきました。
そこに、日本人ならではのエッセンスを入れたくなるのですが、一方で、私たちが生きてきた中には、しっかりと西洋の影響も受けているわけで、その影響も含めてもうちょっと先を見たモノづくりをしたいなと思っています。
ジュエリーって華やかなモノという意識があると思うのですが。
日々の生活の中で、ちょっとした幸福な瞬間、瞬間を感じられるモノ。そういうモノを、つくっていかなければいけないと思いますね。

鹿島:
ジュエリーだけじゃないです。
伊東先生も書いておられますけれど、「心地よい空間をつくる」ということが、今必要なのではないでしょうか。ここ数年、金工の明治の超絶技巧の技で、目を見張るような技術というのが注目を浴びました。
技術はすごいなと思いましたけど、「それで何なのって」という思いもありました。
なぜなら、見る者に緊張を強いるのではなく、所有者が心地よく精神的に豊かになれることこそが工芸品の使命だと思うからです。

*超絶技巧の技: 明治時代に盛んに海外に輸入された、非常に技巧的な日本の工芸品

米井:
鹿島さんの作品はいつも、クスッとどこか笑ってしまいます。とても難しい、緻密な技法を使いながら、どこかに楽しさが常にある。新しいと思います、闘っていると感じます。鹿島布目は非常にイノベーションの意識が高い象嵌(ぞうがん)技法だと思います。

鹿島:
金工の世界では、昔からある伝統の技術を今のアイテムに置き換えていくということが課題だったわけです。
明治になって廃刀令が施行されて、刀の鍔(つば)や甲冑(かっちゅう)の装飾などをしていた金工の人たちが帯留め、工芸品やジュエリーの制作に仕事を転換してきました。
その時代時代に合わせて金属で自分たちの持っている技術を転用してきた技術のプレゼンの歴史なのです。

米井:
もっとお話をお聞きしたいのですが、時間もなくなってきました
日々モノづくりをしていると、私たちは一体何に向かってモノづくりをしたらいいのだろう。我々がつくっているモノがいったい何になっているのだろうと、すごく考え悩みます。最後にモノづくりに向き合っている人たちに、メッセージをいただければありがたいです。

近代の先に、伝統的な技術をつかって何があるのか

伊東:
現代の日本の置かれた状況のなかで、最大の問題は、20世紀からひたすら西欧の近代、いわゆるモダニズムの思想でモノをつくってきた、建築もそうだしジュエリーでも一般の人が着けているモノは、大半そうだろうと思うのですね。
しかし、モダニズム建築の延長上には何も先行きはないということが見えてしまった。
いわゆる、モダンデザインという世界の限界が見えてしまった。だったら、我々が西洋から借りてきた思想でモノをつくるのではなくて、近代以前の我々の中にまだ残っている「DNA=近代以前の美」をもう一回掘り起こして、私たちはどういうことができるんだろう、ということを問い直す。
そういう時代に、どのジャンルもなりつつあると思うのです。それがまだまだ十分に認識されていないし、まだ圧倒的に近代主義は強く社会全体を覆っているので、どうやって伝統的な物を近代の否定ではなく、近代の先に、伝統的な技術をつかって、何があるのかをみんなが発見しなければいけない。
これが、今日本の共通する問題だと思いますよ。
伝統かモダンかとういう対立。その対立からは何も生まれてこないと思います。

鹿島:
建築の場合はクライアントの意向があると思います。しかし我々金属工芸は、勝手にモノをつくっているのだから、何でもありだと思います。
何でもありだからこそ、何をやって生きるか生きないかは自分たち自身の責任だと思います。私はとにかくモノをつくっていないととても不安です。ですから今不安です。
つくっていない自分が、ここにいていいのか。
つまり「モノをつくる」いうことは、自分がこの世に居ていいんだという存在証明ですね。

伊東:
それはすばらしいじゃないですか。

米井:
今、私たちは、モノづくりをする覚悟というのが必要ではないかと思うのです。それはつくる側のどうやって生きるかということにも関わってくる。
つくっている人の、考え方とか生き方などが、これからのモノにはもっと強く反映されていく。
そして、それを所有した人や、そのほかの人たちも含めて、楽しいなとか、何となく幸せだなあという気持ちになってもらえたらいいと思います。
<次ページにつづく>


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「日本のこれからのモノづくり 建築×ジュエリー×金属工芸」

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